中島理論で見るGIレースの勝ち馬(1994年編)

ナリタブライアン
  • 黒鹿毛
  • 1991.5.3生
  • 新冠・早田牧場新冠支場生産
  • 馬主・山路秀則氏
  • 栗東・大久保正陽厩舎
ナリタブライアンの4代血統表
ブライアンズタイム
黒鹿毛 1985.5.28
種付け時活性値:1.25
Roberto
鹿毛 1969.3.16
Hail to Reason
黒鹿毛 1958.4.18
Turn-to 1951
Nothirdchance 1948
Bramalea
黒鹿毛 1959.4.12
Nashua 1952.4.14
Rarelea 1949
Kelley's Day
鹿毛 1977.5.11
Graustark
栗毛 1963.4.7
Ribot 1952.2.27
Flower Bowl 1952
Golden Trail
黒鹿毛 1958.3.5
Hasty Road 1951
Sunny Vale 1946
パシフィカス
鹿毛 1981.5.29
仔受胎時活性値:0.25
Northern Dancer
鹿毛 1961.5.27
種付け時活性値:0.75
Nearctic
黒鹿毛 1954.2.11
Nearco 1935.1.24
Lady Angela 1944
Natalma
鹿毛 1957.3.26
Native Dancer 1950.3.27
Almahmoud 1947
Pacific Princess
鹿毛 1973
仔受胎時活性値:1.75
★Damascus
鹿毛 1964.4.14
種付け時活性値:0.00
Sword Dancer 1956.4.24
Kerela 1958
Fiji
栗毛 1960
仔受胎時活性値:1.00
Acropolis
栗毛 1952
種付け時活性値:1.75
Rififi
栗毛 1954
仔受胎時活性値:1.25
ナリタブライアンの4代血統構成&4代父系の活性値&4代父系の分枝状況
母父 祖母父 曾祖母父
ブライアンズタイム
(Hail to Reason系)
Northern Dancer
(Nearctic系)
Damascus
(Teddy系)
Acropolis
(Blandford系)
父の活性値 母父の活性値 祖母父の活性値 曾祖母父の活性値
1.25
(5歳時交配)
0.75
(19歳時交配)
0.00
(8歳時交配)
1.75
(7歳時交配)
父の分枝状況 母父の分枝状況 祖母父の分枝状況 曾祖母父の分枝状況
Nearcoの5代孫 Nearcoの孫 Bend Orの10代孫 Birdcatcherの10代孫
ナリタブライアンのB&B理論的総括
8代残牡先祖数 4代血統構成
(資質固定指数)
潜在能力値 少ない先祖etc
6/128 A  A  G  F
(0.33)
1.98 父初年度産駒
Acropolis
形相の遺伝 料の遺伝 牝系 何番仔?
Acropolis
(Pacific Princess)
4.25 半兄ビワハヤヒデ
(No.13-A)
5番仔
(4連産目)

潜在能力値は数値が少ないほど大きいことを示しています。

[Notes]

『20世紀最後の三冠馬』ナリタブライアン。年末の大一番となった有馬記念でも圧倒的な強さを見せ、2着ヒシアマゾンに3馬身差をつけて勝利しました。これで年間GI4勝を達成。やっぱり強かった。他の馬にはどうしようもなかった。ナリタブライアンの鞍上は南井克巳騎手、所属は栗東・大久保正陽厩舎。ともに有馬記念初制覇でした。なお、レースの3着には春の日経賞2着以来のライスシャワーが入りました。

勝つ時はいつも豪快に、胸のすく強さを見せつけて、ナリタブライアンは「我が道を行く」というレースを繰り返しました。全盛時のナリタブライアンは異次元の馬でした。同じように、他馬とは異なる次元を走っていた兄ビワハヤヒデとの「兄弟対決」を見ることができなかったのは、ホントに残念です。私は、おりからの大相撲ブームの中で、横綱へとまい進する若ノ花&貴ノ花兄弟になぞらえて、「ビワが若、ブライアンが貴」と思ったものでした。兄弟の関係も、兄弟の「タイプ」の関係もよく合致しているでしょ?まま、競馬ファンみんなが、当時1度は考えたことだとは思いますけれど。本家・若貴の「兄弟直接対決」は若に軍配が上がりました−1995年九州場所−。では、競馬界の若貴の「兄弟直接対決」が実現していたら、どちらに軍配が上がったのでしょうか。その答えは……、皆様の心の中で思い巡らし、頭の中で考え尽くしてくださいませ。


「順風満帆」と思われたナリタブライアンの競走馬生は、4歳春の阪神大賞典圧勝後の「右股関節炎」疾病により歯車が狂ってしまいました。4歳秋、ぶっつけで挑んだ天皇賞・秋12着、ジャパンカップ6着、有馬記念4着。徐々に着順を上げるものの、ナリタブライアンの本当の走りを知っている者にとっては、「?」がつく凡走でありました。「ブライアンも、機械仕掛けではない生身の生き物なんだなぁ」と思いました。そして、迎えた5歳。立ち直れるのか、ナリタブライアン。そんな思いで見つめていた土曜開催の阪神大賞典。前年−1995年−の年度代表馬マヤノトップガンとの、ラスト3ハロンにおける攻防。2頭だけの競馬になってしまった、あの「平成の名勝負」を制して、ナリタブライアンは見事に復活しました。「やっぱり、阪神大賞典は日曜日に無いとアカンなぁ」と思いました。

阪神大賞典の次走は、もちろん天皇賞・春でした。単勝1.7倍の圧倒的1番人気を集めたナリタブライアン。しかし、『遅れてやって来た同期の桜』サクラローレルに差されてしまい、2着に敗れました。天皇賞・春の次走に、大久保正陽調教師は高松宮杯を選ばれました。1200mのGI戦になった最初の年でした。「3200mのレースの次に1200mのレースに出るなんて!」と、出走前から物議を醸したこのレース。ナリタブライアンは、フラワーパークの4着に敗れました。その後、ナリタブライアンは右前脚屈腱炎を発症し、結果的に、高松宮杯が最後のレースとなってしまいました。1996年11月9日。ナリタブライアンは、京都競馬場で引退式を行い、静かにターフを去って行きました。

1998年9月27日。「真の名馬は生命力もある」と信じていた私にとって、ナリタブライアンの訃報には本当に驚きました。腸の開腹手術が行われたりして、体調がすぐれていないのは知っていましたが……。そんなに早く、本物の「無人の野」に駆けて行かなくてもよかったのに……。告別式での早田光一郎氏の涙ながらの挨拶が印象に残ります。

今年(2000年)、ナリタブライアンの初年度産駒のデビュー年となりました。ナリタブライアン産駒は2世代151頭しかいません。残された遺児の中から1頭でも多くの活躍馬が出て欲しいと願います。たとえ、中島理論的には飽和血脈となってしまったTurn-to系でも、三冠馬の父系を根絶やしにしてはいけない。そう、思います。

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