中島理論で見るGIレースの勝ち馬(1993年編)

(父)ヤマニンゼファー
  • 鹿毛
  • 1988.5.27生
  • 新冠・錦岡牧場生産
  • 馬主・土井肇氏
  • 美浦・栗田博憲厩舎
ヤマニンゼファーの4代血統表
ニホンピロウイナー
黒鹿毛 1980.4.27
種付け時活性値:1.75
スティールハート
黒鹿毛 1972.3.25
Habitat
鹿毛 1966
Sir Gaylord 1959
Little Hut 1952
A.1.
芦毛 1963
★Abernant 1946
Asti Spumante 1947
ニホンピロエバート
鹿毛 1974.3.17
チャイナロック
栃栗毛 1953
Rockefella 1941
May Wong 1934
ライトフレーム
黒鹿毛 1959.3.15
ライジングフレーム 1947
グリンライト 1947.4.6
ヤマニンポリシー
栗毛 1981.5.4
仔受胎時活性値:1.50
Blushing Groom
栗毛 1974
種付け時活性値:1.50
Red God
栗毛 1954
Nasrullah 1940.3.2
Spring Run 1948
Runaway Bride
鹿毛 1962
Wild Risk 1940
Aimee 1957
ヤマホウユウ
黒鹿毛 1968.4.19
仔受胎時活性値:1.00
ガーサント
鹿毛 1949.4.5
種付け時活性値:0.50
Bubbles 1925
Montagnana 1937
ミスタルマエ
鹿毛 1963.5.13
仔受胎時活性値:1.00
ハクリョウ
鹿毛 1950.5.6
種付け時活性値:1.00
バドミントン
1953
仔受胎時活性値:0.25
ヤマニンゼファーの4代血統構成&4代父系の活性値&4代父系の分枝状況
母父 祖母父 曾祖母父
ニホンピロウイナー
(Habitat系)
Blushing Groom
(Red God系)
ガーサント
(Hermit系)
ハクリョウ
(Blandford系)
父の活性値 母父の活性値 祖母父の活性値 曾祖母父の活性値
1.75
(7歳時交配)
1.50
(6歳時交配)
0.50
(18歳時交配)
1.00
(12歳時交配)
父の分枝状況 母父の分枝状況 祖母父の分枝状況 曾祖母父の分枝状況
Nearcoの6代孫 Nearcoの3代孫 Whaleboneの10代孫 Birdcatcherの9代孫
ヤマニンゼファーのB&B理論的総括
8代残牡先祖数 4代血統構成
(資質固定指数)
潜在能力値 少ない先祖etc
24/128 A  A  G  F
(0.50)
12.00 ガーサント
ハクリョウ
形相の遺伝 料の遺伝 牝系 何番仔?
ニホンピロウイナー 3.75 近親に活躍馬なし
(No.1-M)
3番仔
(3連産目)

潜在能力値は数値が少ないほど大きいことを示しています。

[Notes]

スプリンターの血の壁を乗り越えて、『最強のそよ風』ヤマニンゼファーが、父ニホンピロウイナーの成し得なかった天皇賞・秋制覇を遂げました。初めての安田記念制覇の時と同じように、この天皇賞・秋が2000m初挑戦でした。鞍上の柴田義臣騎手、管理された栗田博憲調教師ともに天皇賞・秋初制覇でした。レースの2着には、ヤマニンゼファーの元主戦騎手である田中勝春騎手騎乗のセキテイリュウオー。ヤマニンゼファーの強さを知り尽くした両騎手による直線の叩き合いは、ものすごい迫力でした。馬体を合わせての首の上げ下げは、わずかに「ハナ」だけ、ヤマニンゼファーがゴール前で出ていました。

ヤマニンゼファーの戦績を振りかえると、その全成績は20戦8勝(うち重賞4勝)です。初のGI制覇となった1992年の安田記念は「初の重賞制覇がなんとGI!(by フジTV 塩原アナ)」となったどころか、芝レースの初勝利でした。合わせて、前述しましたように1600m初挑戦でした。重賞2勝目となったのは1993年の京王杯SC。安田記念の前哨戦です。重賞3勝目となったのは続く安田記念。同一GI連覇の快挙達成となりました。そして、毎日王冠6着と破れたあとに挑んだ天皇賞・秋で重賞4勝目を飾りました。上記しましたように2000m初挑戦でした。重賞4勝はいずれも東京競馬場で行われる重賞競走でした。欧州の短距離血脈として淘汰されてきたHabitat〜スティールハート、そしてニホンピロウイナーという流れを強く受けて、馬場の広い競馬場で良績を残しました。繰り返し述べますが、ヤマニンゼファーは初距離に挑戦となったGIレース安田記念、天皇賞・秋ともに勝利を収めています。いや、勝負強いですね。

ヤマニンゼファーの牝系は、1953年生まれのバドミントンを日本の基礎繁殖牝馬とする1号族。母ヤマニンポリシーは1勝馬。3番仔としてヤマニンゼファーを送り出しました。祖母ヤマホウユウは70戦7勝という女丈夫。同馬は、1976年に初仔のナギサカオルという牝馬から4年連続で産駒を出産した後、1年の不受胎をはさんで1980年に渡米。そしてBlushing Groomを種付けされ、帰国して生まれた5番仔がヤマニンポリシーでした。しかし、以後ヤマホウユウは不受胎を繰り返し、1984年の暮れに繁殖牝馬を引退しています。曾祖母ミスタルマエは3勝馬。初仔としてヤマホウユウを送り出しました。ミスタルマエの産駒はヤマホウユウを含め5頭いますが、すべてが勝ちあがっています。しかし、残念ながら、繁殖牝馬としてこれからという9歳時に死亡しています。この牝系はヤマニンゼファー以外に主だった活躍馬が見当たらず、すべてのエネルギーがヤマニンゼファーに向けられたという感じがします。また、ヤマニンゼファーの料的遺伝値は「3.75」という弱小な値です。栗田博憲調教師はヤマニンゼファーの脚元の化骨具合を気にされていたのか、当初はダートの1200m戦ばかり使われていました。ゆっくりゆっくりと、ヤマニンゼファーの持つ才能を開花させて行かれたのですね。

ヤマニンゼファーという馬は、最後の直線でいつも耳を後ろに「ピュッ」と絞って、一生懸命走っている印象が強いです。「そよ風、というには強烈すぎた。」というフレーズが、彼に対するJRAのキャッチコピーでした。吹きぬける風のように直線で抜け出して来た1992、93年の安田記念、さながら嵐のような力強さを持って駆けた天皇賞・秋を見るにつけ、確かに「そよ風、というには強烈すぎた。」馬でした。

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