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水仙(裏返し)
時間−あとがき−

人は記憶と共に生きる動物です。喜んだこと、怒ったこと、哀しんだこと、楽しんだこと。全ての出来事を記憶している訳ではないでしょう。けれど、自分自身にとって大きな打撃を与えた出来事は、自分自身というものを形成するにあたって、やっぱり何らかの影響を与えるものだと思います。それは何歳になっても同じだと思います。

人は絶えず感情の変化、肉体の変化と共に生きています。現在の自分というのは、過去の自分とは違うのです。感情や肉体の変化を起こすエネルギーの源となるのは時間です。時間の流れが人の変化を起こすのです。けれど、もし時間の流れが止まってしまったら。本文中に登場する【その人】は、肉体の時間は歩みを止めず、心の時間だけが歩みを止めてしまった人です。【その人】にとっての出来事は、あの日から今日までずっと止まったまま。

記憶−特に思い出や出来事−の積み重ねができなくなった人は、いったいどうすれば毎日を楽しく過ごすことができるのでしょう?楽しく、と書きましたが、別に楽しくなくてもいいのです。しんどくてもいい、哀しくてもいい、怒ってもいい。何でもいいのです。その何かを感じた出来事を、忘却の彼方へ投げ出してしまったら。自分の心のうちとは裏腹に。手放したくないものを、誰に盗られる訳でもなく、また盗られるはずもないのに、自分自身で、自分の意思とは無関係に手放してしまう。それは辛くて、さみしくて、とても悲しいことです。

僕は思い出について考えてみました。良い思い出もあれば、当然悪い思い出もあります。どちらかというと、悪い思い出の方が多いかもしれません。けれど、それは良い悪いに関係なく、どちらも思い出であることに違いはないのです。自分の心に何か大きな打撃を与えたからこそ、その思い出は残っているのであり、自分自身を振り返った時、必ず一緒に登場してくるものでしょう。自分自身を振り返った時、もし思い出の記憶が無かったら。それは味気ない空白の時間の流れ。僕は深く考えさせられました。

生きているということは、ただ漠然と時間を過ごすことではないのですね。生きているということは、時間の流れの中で、感情の変化や肉体の変化という出来事を記憶して、ようやく生きていると言えるのでしょう。記憶というのは自分自身の存在の証明。あとで振り返ってみれば、辛い思い出も嬉しい思い出もみんな同じ思い出。振り返ることのできる思い出の積み重ねができなくなったならば、それはこの世の中のどんなに悲しい出来事よりも、人間という存在にとって一番悲しい出来事。だから、僕は見ず知らずの【その人】に対して泣いてしまったのです。

生きるということは、時として、なんと残酷なことなんでしょうか?僕は、【その人】の生きる姿を見てそう思わずにはいられませんでした。ほんの一瞬しか思い出を記憶できない【その人】は、過去の自分に責められ、現在の自分に苦しみ、未来の自分に笑われているのです。生きながら、死んでいる。彼自身の記憶は、彼自身に対してそういう状態を生み出している。僕は、残酷な時間の流れを、その時一回だけ怨みました。

『人の記憶はいったい何を意味するのか?』。この大きなテーマは、これからの僕の人生にとって深い関心事でありつづけると思います。『どうしても書かなければならないこと』のひとつやふたつ−もしかしたらそれより多く−は、生きていく上で必ず見つかるでしょう。『それ』の発見が、今回の僕にとって大きな出来事でした。

−1997年1月10日、記す。−



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