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水仙(1月13日生まれの方の誕生花)
時間

その人は、障害を持つ方々の介護をするお仕事をなさっていました。その人は、ある日、内臓の病気にかかり、大きな病院に入院されました。その人は、内臓の病気の手術を受けてからしばらくして、夢と現実がひどく入り混じる状態になってしまわれました。障害を持つ方々のお世話をなさっていたその人は、自らが障害を持つ状態になってしまわれました。

人の『記憶』というものは、大きく分けて3種類に別れるそうです。1つ目は『知識の記憶』。例えば、月という漢字があって、その書き方や意味を覚えておくための記憶。2つ目は『技の記憶』。例えば、ワープロのキーボードのキーの打ち方を覚えておくための記憶。そして、もうひとつ。3つ目は『エピソード記憶』。それは『思い出』や『出来事』を覚えておくための記憶。その人は、最後に挙げた『エピソード記憶』が、わずか30分から1時間しかできなくなってしまわれました。

その人が、奥さんに「買い物をしてきて」と頼まれました。その人が、お店に行って、ちゃんと買い物をして、家に帰ってきました。けれど、その人は、1時間後には自分が買い物に行ったことを忘れてしまっている……。買い物に行ったお店の場所は、記憶の障害が起こる以前から知っていたので忘れることは無いそうです。ただ、自分が買い物に行ったという『出来事』の記憶が30分から1時間で消えてしまう……。

その人の家族は、奥さんのほかに3人のお子さんがいらっしゃいます。お子さんのうち上の2人は男の子。3人目のお子さんが女の子でまだ赤ちゃんです。

その人が、男の子のお子さん2人と一緒にサッカーをしている。その人の奥さんが、その様子をビデオで撮影している。その人が、後になってその映像を見直してみる。その時にはもう、その人の記憶の中には『子どもと一緒にサッカーをした』という『出来事』が消えてしまっている……。テレビの画面に映っている自分が、自分ではなく、何かの映画に出てくる名前も知らない役者のように見える。テレビの画面に映っているのが自分であるということを、客観的に視覚で捕らえることは出来ても、そこには主体的な心情が一切含まれない。それは、どれほど悲しいことでしょう。思い出の記憶というのは、自分自身の主体的な『こころ』が入り込んでこそ、『想い出』の記憶となるのに。

先に書いたとおり、その人に新しい家族−女の子の赤ちゃん−が生まれました。その人は、『知識の記憶』としてしか、赤ちゃんを認識することができないみたいです。文字と同じレベルにあるのです。赤ちゃんの顔を思い浮かべようにも、思い浮かばない。顔を見れば、自分の子どもということを思い出せるのですが。自分自身の子どもの顔を思い浮かべることのできない父親……。

僕は久しぶりに、ほんとに久しぶりに泣きました。
「時間が止まってる。この人、時間が止まってしもうてるよ」
僕は泣きながらつぶやきました。


時間というものは、決して止まることはありません。絶対不変のこの世の理です。『生きものの死』以上に、絶対不変のものです。この世が終わるまで、ずっと一方通行の道です。絶えず前進するのみで、決して後戻りしません。時間という大きな流れの中に生きるからこそ、人は人であろうとするために努力します。喜怒哀楽をむき出しにして、生きようとします。時間というものは、人のエネルギー源なのでしょう。けれど、その人の『心の時間』は、あの日から前進することを止めてしまったのです。

いったりきたり、いったりきたり。その人の『心の時間』はブランコのようになってしまった……。

その人の奥さんはおっしゃいました。
「あの人は心から笑うことが無くなってしまった。あの人に心からの笑顔を返してあげたい」と。

寿命という時間の制約を受ける生きもの達。もちろん、人だけでなく犬も牛もカバもライオンもキリンもすべて。定められた時間の中に生きるからこそ、懸命になれるのでしょう。自らの命の儚さを知っているからこそ、懸命になれるのでしょう。けれど、その時間の制約が失われてしまったら……。その人は、ある意味で時間の制約を失ってしまわれました。その結果として、喜怒哀楽を前面に押し出すことができなくなってしまわれました。自分の夢と現実が入り乱れ、幻想と事実の区別がつかなくなり、絶えず不安に陥ってしまう……。

人は過去を背負い、未来をはらみつつ、現在を生きます。過去を変えることはできなくても、未来を変えることはできます。時間の流れは、人にチャンスやエネルギーを与えます。けれど、その人の『心の時間』は、あの日から止まったまま……。公平であるはずの時間の流れが、不公平になってしまいました。僕は、もし神様がいるなら、今すぐその人を助けてあげて欲しいと思いました。その人の『心の時間』が、再び次の日を連れてくることを心の底から祈りました。

祈るばかりでは何もできないのは分かっているけれど、無力な僕には祈ることしかできない。くやしい。

その人の『心の時間』は、あの日から止まったまま……。


時間−あとがき−


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